クリシュナムルティについて
とある夏の午後、古本屋で見つけた文庫本。それがJ.クリシュナムルティだった。彼は宗教家と言われのか知らないし、興味もない。美しい文章だ。
30代に彼の著作をよく読んだ。今でも時々読むことがある。彼は言う、人間はどのようなところで生きようとその文化に条件付けられている。制約があるので、行動も思考自体も自由でありえない。思考も願望もなく今を見ることによって、その独自の行動・知覚が生まれ、自我を超えた祝福が訪れる。つまり、真善美あるいは神とよばれるものとの邂逅の可能性が開かれると。何も意図することもなく、ひたすら自分の内と外を観察する。それだけである。見ることそのものが即行為であり、それ以上はない。
私は彼を理解したのか、何か学んだのか。それはわからない。それは知識ではない。日常にたゆまなく続く一つの視座を示したのだろうか。いずれにしろ、それが生まれない限り人生はどんな乱痴気騒ぎをしようが、閉じた箱の中にあるのは理解しつつあるように思う。
今日も仕事を終え、夕暮れの川辺を歩く。月は天空に高く輝き、自分の心も彷徨する。ただ、それを見ている。
リングワンデルング
数年前、2月の猛烈に冷えた日に、鈴鹿の霊仙山に登った。頂上付近で猛烈な吹雪で遭い、トレースは一瞬で消え、視界は0となった。下山を試みる我々は、山頂付近分岐を示す看板の周りを何度も廻っていた。恐怖が湧き起こる、意図的にではない。離れたと思えば、どこからともなくまたそれは眼前に現れる。怪奇現象のようですらあった。これがリングワンデルングだ。方角、平衡感覚も上下の感覚すら覚束ない。我々は遭難も覚悟した。幸いGPSが復活して、九死に一生を得た。
昔の自分、20数年前の自分が必死で書いた文章を見た。浪人をしていた時の文章だ。今の自分が書いているとほぼ同じことを考え、書いてるのを見て、愕然とする。ここまで一緒かと。それは驚きとともに、人間は自然には変わっていかないものだという認識だ。同じところ廻っている。たくさんの知識を得て、たくさんの経験を積む。だが、芯の部分は変わっていない。ホワイトアウトの中を歩いているようだ。トレースはない。
だからこそ、書いていくこと、記録していくのが大事なのだろう。そうしなければ、我々は吹雪の中を歩くように、同じところを回っている。書く、撮る、記録する、そして、それを見ること。それが、この円環を超えていく、唯一の方法ではないだろうか。